うたかた遊泳記
川に飛び込んでみたい、と前々から思っていた。
とある洋画のラストシーンで、主人公が携帯を噴水に投げ捨てたみたいに。それかとある小説の冒頭で、主人公が自分の部屋のものを何ひとつ残さず捨て去ってしまったみたいに、日常の何もかもを放り出して自由になってみたいと思っていた。
季節は夏。目に映る全てを焼き尽くそうとしているかのように、太陽がじりじり辺りを睨め回すこの季節。日が暮れてからも、闇はまだずしりと熱気を抱きかかえ、大人しくしていても玉のような汗が首筋を伝う。四ツ谷からの満員電車でこれでもかと熱気を纏い、身体中のタンパク質が固まりそうになりながら駅を出ると、そこは日の暮れた薄暗い橋であった。
夏の空は先の見えない深い藍色をしていた。都会の空気はお世辞にも綺麗とは言えなくて、薄いヴェールで幾重にも覆われたように僅かにくすんでまどろんでいた。ごう、と音を立てて橋の下を黄色い目をした電車が通り過ぎる。遠くには楽器屋の立ち並んだ通りがあり、おもちゃ箱をひっくり返したようにぴかぴかと賑やかな光や音を零している。石橋の下は、水面のつるりとした深い川。その横をなだらかな曲線を描いて、時折また電車がごう、と音を立てて通過する。川は黒く暗く、その音を吸い込む。気だるげな暑さに絡め取られた私は橋の真ん中で立ち尽くした。
考えるより先に、つま先は浮いた。
私は重いリュックサックを背負ったまま、聖橋の上から神田川に、糸に引かれるように、それはそれはもうまっすぐに、そして驚くほど滑らかに落ちていった。空をとろりと流れる流れ星みたいに、煙たい夏の闇を切り裂いた。そして、どぼん、と予想以上に重苦しい音が耳に響く。今まで滑るように落ちてきたのが嘘みたいだ。生ぬるい夏の空気が泡になって頬を撫で、微かに冷たい水をたっぷりと含んだ服が全身に吸い付く。水はすべるように私の顔を覆い、鼻や口の中に、苦いような塩っぱいような味が広がった。課題の入ったパソコンが、とか、図書館で借りた本が、とか、そんなこともすべて文字通り水に流されていった。扇のように髪が広がり揺れるのがわかる。どうしようもない開放感に首のあたりが疼き、くすぐったさに吐かれた息は小さな泡になって上へ上へと踊るように昇っていく。
・・・そこまで想像して、目を開く。
たいして幅も広くない橋のど真ん中。そこで立ち尽くす一人の女子大生を、仲間とわいわいと騒ぐ学生や仕事帰りのサラリーマンが邪魔そうに避けながら歩いていく。視線を落とすと水面は澄まし顔でこちらをだんまり見つめていた。私は二回、乾いたつま先で石畳を蹴ると、またのろのろと歩き出した。洋画や小説みたいに面白いことは起きなくても、そう簡単に日常からは抜け出せない。面白くないことは、自分で面白くするしかないのだ。
川に飛び込んでみたい、と前々から思っている。
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